record decode

体内に取り込んだ消化不良の情報を吐き出す退避領域

夏が終わる

夏期休暇に実家へ帰省していた。東京へ戻る日の前日に町内の小さな花火大会へ行った。
地元の花火はたった1000発しか上がらないが、打ち上げ場所がわずか数百メートル先なので、東京で見た14000発の花火よりも破裂音が胸を撃つ。
視野角いっぱいに広がる花火は、その一発一発が力強く、儚い。
 
最後の盛り上がりを魅せたあと、少しの静けさがあり、その時に「あ、夏が終わったな」と強く意識した。
 
 
ここまでは毎年のルーチンワークみたいなものでしたが、これを記録として残したいと強く思ったのは『TUGUMI』(吉本ばなな著)を帰省中に読んだからだと思います。
この作品の魅力的な部分は2つあって、ひとつは主人公つぐみの信念と覚悟と思っています。もうひとつは故郷の魅力かなと思います。故郷といったら読者にとっては狭義なので、安らげる場所、とでも表現したらいいのでしょうか。
登場人物のひとりであるまりあは、小さな頃に過ごした故郷で最後の夏を過ごします。少女だった頃を思い出しながら。そして故郷を後にしたまりあも、ひとつ覚悟します。そこまで読み終えて思うところがあったので、今ここに書いています。
 
 
皆さんは、忙しい人生の隙間に安らげる場所をお持ちでしょうか。
私の場合はやっぱり「故郷」という、一番ありふれた回答になります。
地元の町全体を取り巻く空気や匂いは、その場所で育って町を出た人にしか感じ取れないものがあります。
 
その町で同じく帰省した人と会い、お互いの近況を話し、次の長期休暇にまた会おう、と約束する。毎年同じ時期に同じように地元で過ごすことは、自身を顧みるきっかけにもなっていました。
まだ自分の人生を直視していなかった大学生の時はそれが当たり前で、
このルーチンもいつまでも続くと当然のように思っていました。
 
 
しかし今年はそうは思わなかった。
 
 
今年の夏は、活字の中のつぐみやまりあの覚悟だけでなく、多くの人の覚悟に触れた。人生に対峙し、どう舵を取ろうか悩み、覚悟した場面を多く見た。
 
自分の人生についても少し見つめてみた。
 
仕事や結婚等のライフイベントの選択によっては、故郷に帰らなくなる未来も十分ありえる。
とすると、故郷の空気を噛み締める時間は自分が思っているよりも少なく、貴重なものなのではないのか。つぐみ達のように明確な終わりが無いので、自分でも気付かぬうちにこの情緒は希薄になってしまうではないか。
 
 
怖くなってくる。安らげる場所の記憶が断片化していくことが。忘却することが。
 
祭りにならないと、祭りの夜の空気は思い出せない。ささいなことが欠けているだけでも、完全なイメージ、「この感じ」
はよみがえりはしない。来年の今ごろ、私はまたここを訪れているのだろうか。それとも東京の空の下で、なつかしみながら
胸の中の不完全な祭りを想っているのだろうか。
吉本ばなな著『TUGUMI』 142 頁)

 

記憶を呼び起こすトリガーとなるように文字を起こして、ある時に読み返してみても、それは夢の中の出来事のように輪郭がぼんやりとした景色になってしまう気がする。
やはり「この感じ」は記録には残せない。
 
また人生の続きが始まる。
いつか覚悟する日が来るときに備えて、気持ちの整理をしておく。

「リツイート」に自分への「いいね」はつかない

手が震えていた。
 
ページをめくればめくるほど、心臓の鼓動が聞こえてくるほど感覚が研ぎ澄まされていった。
 
ぼんやりと宙を見つめる。動悸がまだ激しい。深夜4時。『何者』(朝井リョウ著)を読み終えた。
自分の心に直に触れ、ぐちゃぐちゃにかき乱していき
「ホラ、これだよ。わかるだろ?」と目の前に突き付けられた。
これはなんだ?
 
 
それは自分自身だった。
 
 
僕は本を読みながら、物語に没入しながら自分を見ていました。
『何者』は就活を舞台に登場人物たちの想いや葛藤をリアルに描いた作品です。就活において自己分析、つまり自分自身を見つめ直すことは至極当然のことであり、「自分は何者であるのか」というお題は就活生に限らず、すべての人に突き付けられているものだと思います。
そして今日もどこかでこのお題に苦悩している人がいて、僕もその内のひとりだったりします。
就活のときにその答えを(一応は)出したはずなのに、何故このお題が未だに眼前をちらつくのか。当時の自分の記憶を掘り起こすと、答えはシンプルだと気づきました。
 
当時の僕が行っていた自己分析は、「自分のアピールポイント」の発見と装飾でした。
長所はもちろん、短所ですら「それをこういう風に乗り越えうんたらかんたら」とポジティブの方向へ持っていき武装化する。
そして本質的な自分の「弱さ」は見て見ぬふり。また、自己分析をやって悩んでいる(ふりをしている)自分に「ちゃんと就活してるな」と納得し満足感を得ていたり。
当時の自分は、自身を見つめてやりたいこととできることの線引きをするのが、その事実を認めるのが怖かったのだと思います。
 
そんな甘い自己分析でもなんとか就活を終え、今社会人として仕事をしてて思うのが「これ、本当に自分のしたいことだっけ?」なのです。
…誤解を招きそうなので補足しますと、今の仕事に不満があるわけではなく、むしろ日々さまざまな学びや発見があるので恵まれた環境だと思っております。ただ、本当にやりたかったことかと問われると首を縦に振ることはできない自分がいる一方で、自分のやりたいことをやっている人が周りにいることに、社会に出てから気づきました。いや今まで見て見ぬふりをしていたのかも。それをできない自分が浮き彫りになっていくのが怖くて。

 

これは就活時のツケがまわってきたのだな、と。あの頃の無駄なプライドを持っていた自分を殴って言い聞かせたい。でもあの頃の自分は「これが正しいんじゃー!!」って自分の考えを盲信してやまなかったので、殴ったとしても気づくのは今、社会の中で働く僕とやりたいことに邁進している人の対比を直視できるようになった今なんだろうなあと思います。
 
『何者』 は自分自身を深く考えるエッセンスが詰まっている一冊だと感じました。
稚拙な文章ですが、このように自分の意見をリツイートやシェアじゃなく自分の言葉や形でアウトプットし続けられたらな、と思います。